第六話 便器装束

「二人とも、準備は……。ああ、大丈夫そうね。初めてだし、ちょっと大変だと思うけど、ゆっくりでいいからね」

 しようむつへと振り返りながら、そう話しかけるゆう。そんな言葉に、「はい」と答えた二人は、教師と入れ替わるように、クラスのトイレへと足を踏み入れる。

 だが、手ぶらではなかった。その手には、大きく、柔軟性のある、なにかを携えていた。

ちゃん。これで準備も最後だよ。私たちも、まだ慣れてないから、ゆっくり、やろうね」

 そんな言葉に、菜乃は反応を示さない。そのことに、またもやキョトンとしている睦美だったが、それは翔太も同じだったのだろう。そして、少し心配したようにたずねた。

らい……、聞いてるのか……?」

 その言葉に、菜乃はコクリと頷いた。それは、無意識のうちだったのだろうが、睦美には気に入らなかったようだ。

「なんで、とうにだけ、頷くのぉ? 菜乃ちゃんたら……、私だって、便器係として準備してるんだよぉ?」

 本人も気づいていなかったかもしれないが、それは、軽い嫉妬のために出た言葉だった。大切な幼なじみが、翔太には反応するのに、自分には反応してくれないことは、やはり面白くない。

 だが菜乃は、そんな睦美の言葉に、今度はコクリと頷いた。それは、親友であり便器係である少女の気持ちに、気づいたためだったのか、そうではないのか……。

 いずれにせよ、それが睦美の心を満たしたのだろう。少し満足したような表情を見せると、相方に話しかけた。

「ほら、武藤。もうちょっと、しっかり持ちなさいよ。結構重いし、扱いづらいんだからさ……」

「あ、あぁ……」

 必要以上に口調がキツいように感じ、翔太はいい気がしなかった。だが、表だって、そのことには触れない。そして、二人で携えたそれを、軽く持ち直した。

「菜乃ちゃん、ここに足を入れて? ゆっくりでいいからね」

 ふたたび親友へと向き返った睦美は、にこやかな表情でそう告げた。

「うん……」

 そして、コクリと頷いた菜乃は、その指示に従ってしまう。

 睦美が「ここ」と言ったのは、翔太と二人して持っているモノの、ある部分をさしていた。その部分は、全体からすると下の方に位置し、二つの穴が開いており、その先は細い筒状になっていた。ズボンと同じ造りと言えば、わかりやすいだろうか。

 だが、一般的なズボンとは、少し異なっていた。まず、爪先までが一体成形となっている。そのうえ、全体が非常にタイトで、素肌にピッタリと貼り付くような、まったく余裕のない造りとなっていた。

 それでも、なにか特殊な加工がされているとみえ、見た目ほどには穿きづらいということはなかった。だが、それでも、その両脚をすべて収めてしまうには、翔太と睦美の奮闘、そして菜乃自身の無意識ながらの協力が必要であった。初めてということもあり、少し時間は掛かったものの、二人はなんとか、それを穿かせ終える。そしてそのまま、菜乃の穿いている紙オムツ……、パンツまでも覆ってしまった。

「次は、腕ね……」

 その言葉に、まるで操られるかのように、両腕を前方へ掲げてしまう菜乃。そして、その腕にも、細長い筒状のものを通していく。そしてそれは、両脚を通した部分と同じ構造をしていた。違いを言えば、先端が五本指のグローブのようになっていることぐらいか。

 菜乃も、自分が着させられているものが、いわゆる「つなぎ」のような構造になっていることに気づいていた。そのため、両脚、両腕だけでなく、股間や臀部、そして上半身をも、一括して覆われてしまったことがわかる。だが、一般的なつなぎが前側にボタンやファスナーがあるのに対して、これはそうではなかった。

「菜乃ちゃん。次は、頭ね。サイズ的にはぴったりだっていうから……」

 しかも、普通の「つなぎ」と異なるのは、それだけではなかった。その最上端には、あるものが取り付けられていたのだが、それは全頭マスクだった。そんな異様なモノを、翔太と睦美は二人して、菜乃の顔面と頭部へとかぶせようとする。

 しかしながら、そんな二人を、優花が静止する。そして、あるものを差し出した。

「二人とも、ちょっと待って。これを、忘れてるわよ……」

「あっ、いっけない。これがないと、髪が邪魔になっちゃうもんね」

 そう言いながら、受け取る睦美。それは、白い不織布で作られた、ヘアキャップだった。元来は、食品工場などで使用されるものだが、それを菜乃の髪へとかぶせてしまう。もちろん、キャップの中にすべてが収まるように整えてからだ。

「それと……、これもね。貼り付くようになっちゃうから、これがないと、聞こえなくなっちゃうのよ」

 教師からの新たな指示に、今度は、翔太が応じた。渡されたそれは、完全ワイヤレスタイプのインナーイヤーヘッドホンだった。それは小さなものだったため、ゴワゴワとした大判の手袋では扱いにくかったものの、なんとか菜乃の両耳にはめてしまう。

 一瞬、ブンッというノイズが聞こえたものの、すぐに静寂が少女を包み込んだ。どうやら、ノイズキャンセル機能もついているとみえ、それまでよりも周囲の音を感じない。

「それじゃ、今度こそ、かぶせちゃうからね」

 そんな睦美の声を聞きながら、菜乃はなおもボーッとしたままだ。だが、そんな彼女を尻目に、二人して全頭マスクをかぶせてしまう。とはいえ、頭部全体が覆われてしまったわけではない。目の周りと、口の周り、そして鼻の穴の部分は開いていたためだ。だが、それ以外の部分は、ヘアキャップをかぶせられた頭部も、ヘッドホンをはめられた耳も、すべて覆われてしまった。

 そんな菜乃に対して、睦美がなにかを話しかけた。だが、ピッタリと貼りつく感じの全頭マスク、そしてノイズキャンセル機能付きのヘッドホンのせいで、なにを言っているのか、よくわからない。

 だが、反応もせず、まったく動こうともしない親友の前に、いきなり睦美がしゃがみ込んだ。そして、仕上げとばかりに、菜乃のお臍あたりから、股間を通って、背中、そして後頭部あたりまでにかけ設けられたファスナーを閉じてしまう。

 ふたたび、言葉を発する睦美。優花もなにか言っており、翔太もそれに応じているように見えるが、それでもなにを言っているのかは聞き取れない。

 今度は翔太が近づいてくる。口の動きから、なにかを話しかけているのだということはわかるが、やはり菜乃には聞こえない。だが、そのことにはお構いなしに、少女の首回りに手をのばすと、なにかを巻いてしまった。

 ふたたび、言葉を発する翔太。だが、それを受けて優花も口を開いたことから、教師に対して、なにかを問いかけたのだということがわかる。そして、軽く頷いた彼は、菜乃の胸元に軽くあたっているなにかを触った。

 その瞬間、菜乃の耳に、ブーンという音が聞こえた。だが、それも一瞬だけのこと。ふたたび静寂が訪れる。しかし、今までとは違い、ただ静けさを感じるだけではないということはすぐにわかった。

「おい……、聞こえるか、御手洗?」

 その問いに、ふたたびコクリと頷く菜乃。だが、その声はどこか、残響がかかったように聞こえる。そのため、より一層、現実感を伴わないもののように感じられた。

「これで、準備は終わりだよ。菜乃ちゃん」

 そう言った睦美の声も、同じようにリバーブがかかって聞こえる。

 だが、これでやっと終わったのだ。どこか、夢現な感じを抱きながらも、菜乃は頭の片隅で思った。

「ねぇ、御手洗さん。家庭科室から、鏡を借りてきているの。だから、自分でも見てみて?」

 いつもと同じように、優しげにそう言った優花だったが、そんな彼女の言葉など聞こえていないかのように、菜乃はどこかボーッとしたままだ。だが、そのことにはお構いなしとみえ、教師は翔太に対して、姿見を少女の正面へ移動するように指示した。

「そうだよ、菜乃ちゃん。すっごい似合ってるから! だから、見てみて!」

 少し興奮気味に、そう言う睦美。そして、ふたたび優花が、感に堪えないという面持ちで続けた。

「ほんとねぇ。御手洗さんはかわいいから、なにを着ても似合うわぁ」

 だが、そんな褒め言葉とは裏腹に、菜乃を覆っているその衣装は、ある種の異様さを感じさせるものだった。

 それは、ボディスーツ、あるいはラバースーツといわれるものだった。白いラテックスで作られたそれが、少女の全身を覆い隠している。まるであつらえたかのように、しかも、紙オムツの厚みまでもが計算に入れられているかのように、ピッタリと密着していた。

 いまや、菜乃の素肌が表に出ているのは、目の周辺と、唇の周りだけ。鼻の部分に至っては、まるで計測したかのように、ジャストサイズの穴しか開いていない。

 すでに普通の思考が難しくなっていた菜乃にとっても、それは茫然とするしかない格好だった。

 だが、やはりそんなことには気づかないのか、二人の会話は熱を帯びてくる。

「菜乃ちゃん、おでこにある校章も、いいアクセントになってるよ」

「そうね。他の便器には、メーカーのロゴマークが入っているけれど、御手洗さんの場合は、それの代わりって感じかしらね」

 虚ろな視線を、鏡に映るその部分へ向けると、たしかに自分の頭部を覆う全頭マスク、そのおでこの部分に、「中」という文字をあしらった校章が配されているのがわかる。それは、睦美をはじめとした、自転車通学の生徒たちが使用しているヘルメットと、基本的なレイアウトは同じなのだが、その意味するところは、優花の言うとおりまったく違うのだろう。

「でも、せっかく真っ白できれいなのに……、名札がついてるのは、余計じゃないですか? 普通、便器にはそんなのないし……」

 残念そうに、そう言う睦美。だが、優花自身もそう思っているのだろう。そのことは、口調からわかる。

「しょうがないのよ。だって、名札……、つけないといけないでしょ? 御手洗さんは便器だけど、それでも、生徒なんですもの。例外は認められないのよ……」

 ふたたび、視線を動かした菜乃。そして、自分の左胸に、二人の言う名札がつけられていることがわかる。そしてそれは、本来であれば、シングルイートンの胸ポケットに縫いつけられている名札と同じレイアウトになっていることに気がついた。

 そのデザインは横に三分割されており、全体の外枠とおのおのを、紺色の線が分けていた。そのうえで、一番上部左側に校章が、その右側に中学校名が記されている。さらにその下、真ん中の欄には「学年」「組」そして「番」という文字だけが空欄を挟んで配されており、そのおのおのにはフェルトペンで該当する数字が記入されている。そして一番下、そこは全くの空欄となっていたが、黒の手書き文字で「御手洗菜乃」と記されていた。

 だが、便器という性格上からなのか、それは本来の布ではなく、ビニールで作られていることが見て取れる。だが、違いとしては、それぐらい。そして、そんな名札は、こんな異様な格好をしているのが誰なのか……。そのことを、声高に叫んでいるように思える。

「でも、先生……。プレートって、本当は便器じゃなくって、トイレにつけるものじゃないですか?」

 そんな睦美の声は、依然として、残響がかかったように聞こえていた。それがますます、菜乃の意識を濁らせていく。

「そうなんだけど……。でも、床のタイルに貼ってもしかたないでしょ? それに、その中にマイクが入っているから、しょうがないのよ……」

 菜乃の細い首筋には、純白のチョーカーが巻き付けられていた。そして、その前面には、白いプラスチック製のプレートがぶら下げられている。そこには、黒と赤のピクトグラム、そして黒い文字が記されていた。

 そんなピクトグラムは、二つが左右に並ぶように配されている。右側は黒いもので、正円の下に縦長の長方形が描かれており、さらにその下には、それよりも細い線が二本配されている。そして、もうひとつは赤だったが、黒い方とは異なり、長方形ではなく、縦長の二等辺三角形が配されていた。

 それらのものがなにを意味しているのか、わからない者はまずいないだろう。それは、一般的に男子トイレと女子トイレを表すマークであった。それが正しいことは、下に書かれた黒い文字からも明らかだ。なにしろ、そこには太い明朝体で、次のように書かれていたのだから。「お手洗い」と……。

「ほら、武藤も、なにか言いなさいよ」

 不意に睦美は振り返ると、翔太にそう言った。相も変わらず、少しキツい口調なのは、先ほどの嫉妬心が残っていたためなのか、それとも、菜乃のことを褒めないことに、苛立ちを覚えたためだったのか、それはわからない。

 だが、それでも戸惑ったままの翔太だったが、そんな彼に対して、優花が追い打ちをかける。

「そうよ、武藤くん。ほら、こんなにかわいいんですもの。御手洗さんに、なにか言うこと……、あるでしょ?」

 教師にまでそう言われた彼は、とうとう意を決したようだ。とはいえ、どこか気恥ずかしげな様子ではあったが、それでも菜乃のことを見据えて、こう言った。

「あ、ああっ……、よく似合ってるぞ、その便器装束……。どっから見ても……、その……、御手洗は、かわいい……、いや、かわいいっていうのは、便器装束のことで……」

 睦美の冷ややかな視線と、優花の温かみのある視線にさらされながら、頬を少し朱に染めたまま、しどろもどろに言葉を続ける翔太。だがそれでも、最後にはこう言い切った。

「御手洗は、立派な便器だ」

 そのとおりだった。その色といい、光沢といい、鏡の中から菜乃のことを見返していたのは、紛れもなく便器だった。

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