菜乃は茫然と立っていた。優花の発したあの言葉が、頭の中でこだましているのを感じながら。
――御手洗さんは便器なのよ。
それは、簡単な日本語だった。子供でもわかるだろう。だが、その文法的容易さに反して、その意味するところは、少女には理解できなかった。なにしろ、自分は便器などでは……。
「わかったかしら、御手洗さん?」
だが、そんな混乱気味の教え子に対して、優花は優しく問いかける。
「せ、先生……。わ、私が……便器って……」
「そうよ。御手洗さんは便器なのよ」
「で、でも……、便器って……」
「あらあら、御手洗さんったら。まだ、そんなこと言ってるの? 便器は、オシッコやウンチをするモノ……、さっきもそう言ったじゃない?」
クスッと笑いながらそう言った優花は、翔太と睦美の方を振り返った。
「……そして、武藤くんと植野さんが、便器係として、クラスの便器……、つまりは、御手洗さんのお世話をしてくれることになっているの」
そんな女性教師の言葉を受け、睦美が語を継いだ。
「そうだよ。菜乃ちゃんは便器だから――」
それは、これまでと変わらない、いつもの口調だった。だが、その言葉は、菜乃に強烈な衝撃を与えた。
「――余計なことを気にしなくっても、私たちが、準備をしてあげたり、後片付けをしてあげたり、お掃除してあげたり……。しっかりと、菜乃ちゃんのお世話してあげるから」
だから、安心して――。睦美の話し方からは、親友にそう伝えようとしているのだということがわかる。そして、そのことは、菜乃にも十分すぎるほどに伝わっていた。だが、あまりの内容に、言葉も出ない。
しかし、そんな菜乃の頭の中では、先ほどの優花の言葉に加え、睦美の言葉までもがこだまし始めていた。
――御手洗さんは便器なのよ。
――菜乃ちゃんは便器だから。
そして、頭が割れんばかりの痛みに襲われてくる。それは、昨日、菜乃が学校を休まざるを得なかった、あの痛みと同じように感じられた。
「ほら、ちょっと、武藤。あんたも、なにか言いなさいよ」
だが、そんな菜乃の様子に気づかないのか、睦美はかたわらにいる少年をせっつく。
「あ、ああっ……」
だが翔太は、素っ気なく返事をするだけだ。
「武藤くん。御手洗さんに、言うことがあるんじゃないかしら?」
そんな少年の態度に、優花はそう諭したが、それでも黙ったままだ。そんな様子に、睦美がふたたび口を開いた。
「なんだよ、武藤。昨日、菜乃ちゃんが便器に決まった途端、ほかの男子を押しのけるようにして、オレが便器係になるって……」
「お、おいっ……、やめろよ……」
慌てた様子で、睦美の言葉にそうかぶせかけた翔太は、ばつが悪そうに、菜乃の方へ向き返った。
「み、御手洗は……、便器だからな――」
三度目の衝撃が、菜乃を襲った。だが、翔太の言葉は終わらない。
「――オレが、しっかりと面倒見てやるから……、その、心配すんな……」
「オレ、じゃなくって、オレたちでしょ。なに、あんた一人だけで、菜乃ちゃんのお世話をするように言ってるのよ……」
そんな睦美の突っ込みも、菜乃の耳には届いていなかった。
――御手洗さんは便器なのよ。
――菜乃ちゃんは便器だから。
――御手洗は便器だからな。
それらの言葉が、菜乃の頭の中を、ぐるぐると回り続けていた。鈍い痛みを伴いながら。
「ど、どうして……、わ、私が便器に……?」
それでも、なんとかして、そう聞き返した菜乃だったが、その答えは少女の期待に応えるものではなかった。
「どうしてって……、そう、決まったからよ」
さも当然ともいった感じでそう言った優花だったが、それは返答にすらなっていなかった。
だが、教師の言葉を受け、菜乃の頭の中で繰り返される言葉に変化が生じていた。
――決まった。
――決まった。
――決まった。
やがて、先ほどの言葉と混ざり合っていく。
――御手洗さんは便器に決まった。
――菜乃ちゃんは便器に決まった。
――御手洗は便器に決まった。
そして……。
――私は便器に決まった。
今や、菜乃の頭の中は、その言葉で埋め尽くされていた。そして、鈍い痛みと相まって、どこか実際の出来事ではないようにも感じていた。そんな、一種のトランス状態に陥っていた彼女だったが……。
「……ねぇ、菜乃ちゃん。大丈夫?」
その言葉に、菜乃は不意に、現実へと引き戻された。
「えっ? な、なに?」
「もう、菜乃ちゃんたら。さっきからボーッとしちゃって、どうしたの? もう、用意終わっちゃったよ」
「えっ?」
もはや、菜乃の頭の中では、先ほどの言葉は繰り返されていなかった。そして、明らかな痛みも消え去っていた。
それでも、頭の中にモヤがかかったように感じながら、あたりを見回した菜乃だったが、その様相が一変していることに気がついた。
今や、机と椅子はすべて後ろの壁際へ寄せられており、前側のあいた部分には、クラスメイトたちが車座になっている。そして、そんな、彼ら、彼女らに取り囲まれるようにして、優花と翔太が立っているのが見えた。さらには、そのかたわらには、縦長のなにかが置かれていたが、それは菜乃からはよくわからない。
だが、そんな状況の変化から、自分が気づかないうちに、ずいぶんと時間が過ぎていたのだということが、菜乃にもわかった。おそらくは、みんなが教室をこの状態にするまでの間、ずっとトランス状態に陥っていたのだろうこともだ。
「ほら、菜乃ちゃん。みんな、待ってるよ。行こう?」
気遣いつつ、手を差しのべてきた睦美。だが、彼女の手が、自らの手に触れた途端、菜乃は驚いた。冷たい感触に、思わずそこへ視線を向けると、親友が手袋をはめているのがわかった。そしてそれは、掃除に使うピンク色のビニール手袋だった。
どうしてそんなものをしているのか、菜乃にはわからなかった。だが、手を引かれるままに、女性教師と翔太のもとへと導かれてしまう。
「はーい、みんな、静かにして」
優花の声に、ざわついていた生徒たちが静まりかえる。そして、そんな中を縫うようにして、睦美と菜乃は進んでいく。
そして、車座の中心へと導かれた菜乃は、その部分の床が通常とは異なることに気づいた。木製の床の中で、ある一部分だけが、白く光り輝いていることが見て取れる。
それは、タイルだった。一畳敷きほどの範囲が、真新しい白いタイルで覆われていた。とはいえ、教室の床に直接タイルが貼られていたわけではない。実際には、ベニア合板に貼られたそれが、床に置かれていただけだったのだが……。
詳細はどうあれ、なぜそんなタイルが教室に敷かれているのか、もちろん菜乃にはわからない。だが、そのことには誰も触れない。もちろん、優花もだ。そして、さも当然のように、話が進んでいく。
「御手洗さん、ここへ来て……」
そして、翔太の方へ振り向いて、こう言った。
「ほら、武藤くん。植野さんだけにやらせてないで、ちゃんと御手洗さんのこと、エスコートしてあげないと。男の子なんだから……」
相変わらず素っ気ない感じを見せる翔太だったが、それでも黙ったまま、歩み出る。そして、睦美に手を繋がれたまま、タイル敷きの板の脇で立っている菜乃に、自らの右手を差し出した。
そんな彼の手も、やはり手袋で覆われていた。それは、睦美のはめているものと同じだったが、色だけが違った。ライトブルーのそれを思わず見つめた菜乃だったが、そんな手首の部分になにかが書かれていることに気がついた。黒いフェルトペンで書かれたその文字は、菜乃たちの学年クラスとともに、次のように記されていた。「便器用」と……。
不意に、その意味するところに思い当たった菜乃は、慌てて睦美の手袋も見直した。そして、そこにも同じように記されているのを見いだし、確信した。
自分は、便器として扱われているのだ――。
そう、便器として扱われている。だからこそ、二人とも掃除用のビニール手袋などをはめているのだ。
そして突然、白いタイルの意味も理解できた。それは、トイレを模しているのだ。それは、端のタイルに記された、学年クラス、そして「トイレ」という黒い文字からも明らかなようだ。
そして、そんなクラスのトイレに設置される便器というのは……。
ふたたび、激しい痛みが、菜乃の頭を襲った。それにあわせて、先ほどの言葉が蘇る。
――私は便器に決まった。
そしてそれは、繰り返されるにつれ、変化していく。
――私は便器。
――私は便器。
――私は便器。
その言葉に、頭の中を支配された菜乃は、動けなくなってしまう。
だが、翔太はそのことには気づいていなかったのだろう。
「ほら、御手洗……」
いつまでも手を握ってこない菜乃に対して、どうすればよいのか、彼はわからなかった。だが、戸惑いの表情を見せながら、それでも自らの右手を、それまで以上に前へと差し出した。
菜乃には、翔太の言葉が聞こえていたのか、そして、彼の動きが見えていたのか、それはわからない。だが、ボーッとしたまま、それでも彼の右手を握ってくる。
「行こう……、御手洗」
それは、素っ気ない中にも、どこかに気遣いを感じさせる、そんな言い方だった。そして、微かにコクリと頷いた菜乃は、翔太に導かれるがままに、白いタイル……、つまりはクラスのトイレへと足を踏み入れてしまうのだった。
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